244 プラスチック・ワード―歴史を喪失したことばの蔓延
藤原書店
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「現代に於いて重要なのはコミュニケーションである.
制約されたリソースの中で,情報をマネジメントし,
我々の基本的ニーズを問題解決するプロセスの中で,
価値を最大化し現代経済という硬直したシステムに
適確なソリューションを与えられる人材こそ,
我々が教育を通して生み出す人材である.」
さすがに,これはヒドイかなぁ~.
上のような発言を聞いて,みなさんはどんな気持ちがするのでしょうか.
「そうだそうだ!なかなかいいことを言う.」と思う人がいる一方で,
「結局何をいっているのかわからん!」と思う人もいるのではないでしょうか?
前者の「そうだそうだ!」という人は,
プラスチック・ワードに踊らされている人でございます.
むしろ,本稿の読者ならば後者のシニカルかつ
冷静な立場であって欲しいと思うのだ.
上で出てきた「コミュニケーション」「インフォメーション」
「マネジメント」「リソース」「価値」「基本的ニーズ」などといった単語は
プラスチック・ワードである可能性がきわめて高いと
ウヴェ・ペルクゼンが言う単語達である.
ペルクゼンの言うところによると,プラスチック・ワードとは
レゴブロックのように自由に組み合わせて,一見意味ありげな
文を製造できる言葉である.
私が今,即興で,そんな言葉だけでわざと作ってみたのが
冒頭の文章なのである.いかがでしょうか?
そんな言葉が現代,パンデミックに広がりまくっている.
それが本書で問題にするところのものなのだ.
プラスチック・ワードは実は民主主義政治とも切っても
切れないという点を指摘している点は本書の中で
面白い点のひとつだ.
ペルクゼンがドイツのコール元首相の演説を
調べてみたところ,そこにはプラスチック・ワードが
満ちあふれていたという.
トクヴィルは「アメリカの民主政治」のなかで,
アメリカ英語が抽象化,擬人化,曖昧化という三つの性質を帯びるよう
になったと指摘し,これは政治形態による所が多いと言う.
民主的な国民は抽象的な単語を熱烈に好むのだそうだ.
抽象的な言葉は思考を肥大化させる.
一方で抽象化は観念の明晰さを減じるが,
これは逆にあまり問題にならない.
民主主義政治では明確な言葉よりも,受け取り手によって
いかようにも解釈出来る言葉が重要になるのだ.
それっぽく聞こえて,「偉そう」に思えるが,
結局「なんの事を言っていのかわからない」間に合意形成に
使われてしまう.そんな言葉達がプラスチック・ワードなのである.
そんなプラスチック・ワードが,現代,密かに,いや派手に隆盛を
誇っている.学問やビジネスも言葉の積み重ねであり,将来像を構想し,
企画案・申請書を書いている内に私達もプラスチック・ワードにまみれている.
これはもはや断言できる.
経営コンサルタントや行政マンなんかにとっては必携の言葉達だろう.
行政の中で旗を振るときに,それはプラスチック・ワードに
充ち満ちていないだろうか.
小泉元総理の「聖域無き構造改革」なんて言葉も懐かしいプラスチック・ワードだ.
僕がこの類の言葉に違和感を覚えたのは,就職活動の時だった.
当時は「ブレークスルー」「ソリューションビジネス」などという言葉が
流行語的に広まっていた.就活そのものの過剰っぷりが,
最近批判されるようになってきているが,そこに現われる
プラスチック・ワードの数々をみているだけでも,
そこに潜む虚構の片鱗は見えてくるのかも知れない.
さて,このプラスチック・ワードの多くに共通する出自に
科学を経過した事による変質をペルクゼンは指摘している.
そして,まさにそれは「情報」という言葉にまつわる事なのである.
現代社会における「情報」という言葉の多義性と混乱は
西垣通の「基礎情報学」などでも主題として扱われている,
「情報」という言葉は,ご存じシャノンに始まる情報理論により,
数理モデル上で記述され科学の洗礼を受けた.
科学を一度通過した事により,「情報」という言葉は学界で
厳密な定義を与えられたわけであるが,
それはデータとしての「情報」であり日常語としての「情報」の
ふくよかな意味全てを含むわけでない.ちなみに,区別のために,
西垣はこれを「機械情報」と呼んでいる.
私達は生活の中で「マスメディアから私達が得る情報量」などと言って,
なにかまるで情報が定量化しうるかのように振る舞っているが,
マスメディアから流される,文字情報,信号情報の確率分布を計算して
情報量を求めている訳ではない.
ほとんど,日常語としての情報という言葉に科学ッポイ言葉を
当てはめソノ気になっているだけだ.
第一,私達が感じ取る意味の次元での情報は,
情報理論では扱っているものではない.
この「情報」こそ,科学の洗礼を受け変質したプラスチック・ワードの典型である.
同門で「コミュニケーション」なんていうのもそうだろう.
他分野の出身者では「進化」や「構造」などというのも,かなりくさい.
個人的には「脳科学」にもプラスチック・ワード的要素がかなり大きな気がする.
特に日本人は外来語崇拝があるため,プラスチックな外来語はあまり
意味が無くても「定義された語」として受け入れてしまうクセがある.
「マネジメント」なんて,実にプラスチックだ.
となるとMBAやMOTなど,その看板からプラスチック・ワードに満ちあふれてしまう事になるから大変だが・・・.
このようなプラスチック・ワードを生み出す領域の代表選手として
ペルクゼンは科学・経済学・行政を挙げる.
いや納得である.また,このような言葉を得意げに操る人間を
ペルクゼンは「エキスパート」と呼ぶ.
まぁ,言ってしまえば「マネジメント」の父,ドラッカーの言うところの
知識労働者というヤツだろう.
・・・・ああそうか,僕らの事だ(汗).
結局,具体像を持たない言葉は,コミュニケーションや意思決定に
無駄を生じ,私達の知的生産性を毀損している恐れすらある.
最近は学生の研究発表を聞いていても,
単語単位でははしっかり上等なのだが,具体的に何の事かさっぱり
分からない発表が多かったりするのだが,ホントどうしたものだろうか・・・.
CO2の排出が問題となり,テロの拡大など国際問題だったりするが,
その一方で見えないところでプラスチック・ワードの拡大は
私達の言語活動及び,それに基づく社会・政治・経済活動を
大きく変質させていっている.
そんな,気づきそうで気づかない,今そこにある危機に気づかせてくれた
本書は,私の中でなかなかのヒット作であった.
本来,情報学とはコンピュータばかり触って満足するのではなく,
こういう人間をとりまく情報の諸問題にも取り組んでいかないといけないのだろう.
それが情報工学と情報学の違いなのかも知れない.
一読をオススメする.