大学コピペ レポート問題.にオモフ
「屈託無くコピペする若者たち」
という,現場での衝撃がここにある.
はい.
ぶっちゃけ,しばしば起きてしまっています.
# もちろん,見つけたら不合格だからね!!>学生諸君
こういうことに,オトナは
「社会常識がわかっていない!基本的な倫理教育からせねば!」
ということをおっしゃるわけです.
もちろん,そういう面もあるんですが,
・技術進化による,文字媒体の意味が変わってきている.
・情報化社会における「知識」の意味が問い直されてきている.
という,背景にまで思いをはせるべきだろう.
「コピペは文化だ!」
とかいったら,「不倫は文化」発言で攻撃されたJ石田バリに攻撃されるのだろう.
少なくとも彼ら(我々)は容易にコピペ出来る技術を持っているし,現代の産業がそれに支えられている面もある.
文書を作るのが仕事の主要な面を形成する,ホワイトカラー,官僚や研究者,企画者などが
いっさいコピペを使わず,文書を作成しているだろうか?
また,「真似」なくして,学習,文化そのものが成り立つだろうか?
「真似とコピペは違う」
と,言うこと自体はたやすい.
しかし,その水準を明確に述べることが出来る人間がどれだけいるのだろうか.
# それが明確なら模倣学習の研究で,これほど苦心することもない.
また,プログラミングやシステム保守などで,トラブルが起きた際には,解決法をWEBから検索し,ある種のコピペにより,命令を記述し,乗り切る.
こういうスキルのない人間は現場対応力を持てないと思う.
多分,今や,パーツとしてのデータをつなぎ合わせ,完成品を導く能力は不可欠なのだ.
多分,昔のレポートではそれを,図書館の本の群から手で引っ張り出して,手で転記していた.これはそれなりにコストがかかったから,許されていた面があった.
さて,問題が設定すれば,その評価関数をもっとも効率的に満たすように行動するのが,それを迎え撃つ側に求められることだ.
我々はこれまでの文明,文化において「レポート課題」というものが,学習者の到達度を検証するに於いて有効であったと考えていたから,これを実施していたのだ.
でも,そういうものは文化相対的であることは,議論をまたない.
もはや,コピペする学生を責め続けても,甲斐は無く,エネルギーロスが甚だしい(少なくとも大規模講義においては).
私たちは,現在の文明の状況を受け入れて,情報化社会の時代にあった到達度検証手法を学生に提供すべきだろう.
レポート試験を維持したい場合どうすればいいか?
カンタンである.
試験時間をとって,その時間の中で持ち込み無しで
書かせればいいんじゃなかろうか?
そうすれば間違いなく「自分の言葉」になる.
「いや,ゆっくり資料と向き合って,その情報をまとめ上げる能力がほしいのだ.」
と言う場合には,それが
「多数のWEBページから意義深い記述を抽出し,それらを一つの文章として統合する能力」
とどう違うのか?明らかにすべきだろう.
とりあえず,コピペには著作権の問題はあるが,
それは明白な事として置いておきつつ
情報化社会における「知識の意味」の問題と「コピペ問題」は密接につながっている.
西垣通ならば 「社会情報の機械情報化をつうじた疑似社会情報化」と論点を切るだろうし,まさにその通りだと思う.
情報=データ さらには,知識=データ というパラダイムに毒され続けてきた,僕らの という,情報化社会の根本問題が,この裏には潜んでいるのだ.
場当たり的な対応のみならず,これを機に,そういう問題についても思索を深め,学問・知識の意味とその計量方法についての考えを深めたいものだ.
そして,伝統的手法にしばられず,無駄な不幸がうまれない手法をダイナミックに提案していきたいものだ.