231 状況に埋め込まれた学習ー正統的周辺参加
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実践的な知識とは何か
さて、学校においてはどのような実践が可能か
目から鱗が落ちる学習論です。
私には難しかったです。
効率的学習とは
長らく待たせていた本書を読了した.
間違うことない良書だ.
すばらしい.
人間の「学習」そして教育の本質を突いている.
学校教育の「教育論では無い」と本書は言っているが,
それは,学校教育に携わる人間が読まなくていいと言うことではない.
むしろ,激しい論戦が本質と異なる部分で巻き起こる,
学校教育論自体の論争に巻き込まれる事を嫌い,
アジェンダの切替を行ったというところだろう.
本書は学習を「徒弟制」から読み解く.
親方の仕事の一部を任され,そこから,組織の一員となっていくプロセス
それが正統的周辺参加だ.
そして,その徒弟も十全的参加へと変化していく.
学習とは知識を内化することではない.(と,断言すると語弊があるかもしれないが・・・)
p27
学習過程を歴史化するということは,「内化」を普遍的過程として,歴史性のないものとする見方が間違いであるとする.
学校教育では,結局,学校という場における知識しか身につかないという事は良く指摘される.
「テストの点の取り方を覚える」
「歴史は年号を覚えること」
「学校教育なんて当てにしていない.勉強は我が社に入ってからやってもらいまうす.」
と,
経験や活動と結びつかない言葉の意味は、参加者がその意味を自らの行為の中に意味づける事を困難にし,ただ,教科書・学校の言葉・活動を再生産する活動へと組み込まれる.
しばしば,学校教育は自己目的化する.
「じゃあ,どうすればいいの?学校なんてない方がいいの?それも変じゃない?」
と,いわれる.
僕も学校教育のはらむ矛盾と,それに対する問題意識は良く口にするが,
そのたびに上記,指摘に明確な返答を示せない.
学校教育は人類史的にも比較的,最近出来た構造物なので,理解は難しい.
国家概念との関係も切り離せないので,ややこしい.
本書は,だからこそ,学校教育の本ではない と,かなり丁寧に,一線を引き,
そこへの提言と見せかけないようにして,本質的な議論をしようとする.
解説の福島が指摘するように
本書のアプローチは認知科学的であり,社会科学的であり,
文化人類学である.
ことば についても重要な指摘がある.
・・・というか,記号について考える者にとっては,究極的に重要なのだが・・・
p.68
ことばは実践の一部であり,人びとが学ぶのは実践のなかである.
(中略)
中心的問題が活動だろうとことばだろうと,学習に関して重要なことは,教授行為へのアクセスではなく,学習の資源としての実践へのアクセスの問題である.
自分の議論のしかたに引き寄せると,
知識の伝達というシャノン&ウィーバー型のコミュニケーションモデルにとらわれすぎた頭では,教育とは,情報伝達と化してしまう.しかし,ことばの意味は まさに実践の中にあり,その環境の中に入らない限りは,ことばの意味は本質的には見いだされない.
ことばの獲得はしばしば手段ではなく,十全的参加へいたった証しであったりする.
本書の理解は,非常に本質的であり,
人間の学習のプロセスについての議論を行う上で,基本に置くべき基準を与えてくれるといってもいいのではないだろうか?
新参者は何時か古参者にとってかわる時がくる.
そして,その間に衝突が起きることもある.
それらが置き換わっていき,しかし,組織は継続していく.
それが正統的周辺参加のダイナミックな流れだ.
その活動全体を,あるしゅ文人的に捉える事が,学習の理解にとっては
不可欠であることを教えてくれる.
学習は至極,集合的なものであるのだ.
久しぶりにベタボメの一冊です.
とはいえ,この本の「ことば」をどのように理解出来るかどうかも,
この手の本を支える 文化への「参加」が前提となり,
環境適応とことば・記号・コミュニケーションの関係について,頭を捻ってきた僕だから
感動した面もあるのは否めない.
もっと,早く読んでおけばヨカッタと思う一方,
あまり早く読んでも,よくわからなかっただろうなと思ったりもする.
ジャケ買いはあり得なさそうな一冊ですが,オススメです.



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